5年間いじめられっ子で自⚪︎しかけた黒歴史。陰キャでうつ状態の給料17万サラリーマンが月100万円達成した話。

こんにちは、はじめまして。

ルーカスと申します。

 

僕をSNSなどで表面上だけ見ると、

うまく行っている、成功しているように見えるかもしれませんが、

実は5年もの間、いじめられっ子で自殺しようとしていました。

 

そして、サラリーマンのブラック労働地獄によって、

うつにもなり、電車に突っ込んで⚪︎んでしまおうかと追い詰められていました。

 

ですが、今は人生楽しく生きられています。

いじめや、嫌な労働からは解放されて好きな仕事をできています。

 

 

「心の底から生きてて本当に良かったな」

「もっとこれから最高に人生楽しくなるな」って思っています。

 

ですが、こんなことは昔の僕は思うはずもありませんでした。

そんな明るい未来など全く見えませんでした。

 

ずっと真っ暗いトンネルの中を彷徨っていました。

地獄の中にずっといました。

 

そんな地獄の状態の僕でしたが、

なぜ今の『お金と時間、人間関係に一切縛られない』

最高の状態になれたのか。

 

その答えは、自殺までの苦しい状態でも

『絶対に諦めなかった』

からです。これ1つにつきます。

 

人間であればそんなに大差はないです。

スポーツであれば、生まれつきの身体付きやDNAで多少優劣があります。

 

しかし、

お金を稼ぐこと、ビジネスであれば、

人によってほぼ差はないです。

 

どれだけ時間をかけて、誰よりも必死になってできるか。

この1点につきます。

 

後に書きますが、僕はかなりの落ちこぼれです。

Fラン大学卒ですし、手取り17万円の時期もありましたし。

でも努力次第、知識に投資をして学べば誰でも月100万とかであれば、

才能なしで行けるのです。

 

だから、これを見ているあなたも、

絶対に諦めないでください。

投げ出さないでください。

自分自身と戦って勝ち続けてください。敵は誰もいません、怠けてサボってしまう自分自身が敵です。

苦しくてもやってください。

 

大丈夫です。

僕が先に進んで自由は獲得できているので。

信頼してついてきてくだされば。

 

 

僕のことを知らない人がほとんどだと思いますので、少し自己紹介しますね。

仕組みとマーケティングを使い、月100万以上を稼いでいる人間です。

 

怪しいですよね。

まずは僕がどんな人間かということを
紐解いて話していこうかと思います。

 

まず簡単なプロフィールとしては、
20歳からビジネスをやっていて、

 

今ちょうどこのメールを書いている時は
26の年になるんですが、

 

具体的な数字で言うと、月100万円を稼いでいます。

 

これまで人生がどういう風に変わってきたかというと、

・月に合計100万円以上を顧客から感謝されいただけるようになった。

・家でPC1台で完結するので、サラリーマン時代の通勤ストレスから解放された。

・累計1500万円以上を使って、富裕層からビジネスの知識を学ぶ。

・苦手な人とは仕事しなくて良くなったので、人間関係のストレスがかなり減った。

・朝起きるのが苦手だが、朝早起きしなくてよいし、遅くまで起きて好きなことができる。

・理不尽に上司から怒られなくてよくなった。

・お金が足りないことによる喧嘩がなくなった。

・元々はドがつくほどのインキャだったが、稼ぐようになって男としての自信がついた。

・その結果、モテるようにもなった。

・僕のようになりたいと言っていただき、直接コンサルして人生を良い方向に変えることができるようになった。

 

これが僕にとって当たり前の世界です。

 

しかし、それらを達成するまでにはかなり苦しみました。

人間関係の問題で精神的にもおかしくなったこともあります。

 

嬉しいことよりも8, 9割方は、苦悩の方が多かったです。

しかし、成長している最中の自分自身は楽しかったというのが正直なところです。

今、苦しくて何かに諦めかけそうになっている方は、これを見て少しでも続けてみようと思ってくだされば嬉しいです。

 

以下、僕の地獄と栄光のストーリーを書いたので、ぜひ読んでください。

 

僕がいかに

お金がなくて悔しい思いをして、

病気で苦しく、

精神的にも病んでいる死間際のギリギリの状態から、

栄光を掴んだのか

をわかっていただけます。

 

普通にあなたにもなれると、勇気が湧いてくると思います。

というか、学べば行けます。諦めず進み続けましょう。

 

この下から、僕の地獄と栄光の人生です↓

 

幼稚園〜身体が弱くて何度も入退院を繰り返す。生きている心地はしない。

僕は、小さい頃から身体が弱く、何度も病気をして入院を繰り返していました。

 

・りんご病

・水疱瘡

・肺炎2回

・ぜんそく
(僕の住んでいるとこは、北海道の中でも鉄の町と言われるだけあって、工場がたくさんあったので、工場から排出される汚いガスで気管支のぜんそくになりました。窓のレールや、窓網が2、3日で黒くなるレベルです。)

 

2〜4歳だけでこれだけです。

明らかに普通の人よりも多いと思います。

(他の細かいインフルエンザとかは除いてます。)

 

肺炎の時は、3歳と小さすぎるのと、意識があまり覚えていないのですが、

呼吸が苦しすぎて、死ぬかと思いました。

 

肺炎で亡くなっている方が大変多くいらっしゃいますが、死を覚悟するレベルです。

これは肺炎になった人にしか絶対にわかりません。

 

僕は肺炎の中でも重度だったので、酸素吸入器がないと死ぬレベルです。

普通に死にいたります。

 

2回目の肺炎の時は、母がぜんそくがひどくなったと思って、

救急車を呼ばずタクシーで病院に連れて行ってくれました。

 

かかりつけの大型病院なのですが、

受付の時点で「これは入院ですね」と言われ、

呼吸が苦しくて、困難で意識も薄かったので、

すぐにストレッチャーで点滴をつける処置室まで運ばれました。

 

僕は注射💉が、かなり嫌いなのですが、

 

その時の点滴は、怖すぎて、

(やはり点滴の針は普通の注射針よりも、ぶっといので。)

 

「いやだ、いやだ、怖い、怖い」

めちゃめちゃ、意識薄いながらに拒んだのを覚えています。

やはり超嫌なことは覚えているんですよね。

 

これは死ぬまで忘れないです。

そして、考えられないくらいアホほど痛かったです。

 

痛すぎて大泣きしました。

心の底から

「痛い!痛い!!、もうやめて!!いじめないでと。」

先生方からしたら、助けたくて、いじめではないのですが笑

 

もう二度と点滴の針は嫌だってくらい嫌いです。

4歳の時の記憶なのですが、これは鮮明に覚えています。

 

幼少期の記憶って強すぎるんですよね。

 

あなたにもないですか。

『消えない幼少期の記憶』

 

もう絶対点滴は嫌ですが、

今後老人になったら、そうなってしまうので覚悟はしないとダメですが。。

 

だから、若いうちにいっぱい楽しいことをして、悔いの残らない人生に僕はしたいのです。

それがおそらく人一倍強いです。

だから、どんなに落ちこぼれで最悪な地獄みたいな状態だったとしても、

何回も心へし折られても、立ち上がって、再起して頑張ってこれたのはあります。

 

本当の意味で、それを思っているかです。

僕はマジで強く強く思っています。

だから絶対に夢、理想は叶います。叶わせます。

 

そんなこんなで、3~5歳の幼稚園に通っていた頃は、

肺炎で入院して幼稚園に1年程度行けませんでした。

ずっと病室です。

 

病院で楽しいことといえば、

・朝7~8時ごろに入る、ハクション大魔王を見る

 

・1階の売店に行ってデジモンカード、お菓子(特にグミとか)を買ってもらうこと

でした。

 

今は、全然カード好きではないのですが笑。昔は男の子だったらなぜかハマりますよね。

 

5歳を超えてからは、少しづつですが

他の子と同じように健康に、幼稚園に通えるようになりました。

 

小学生〜人生最高点から一転し、いじめられっ子になり絶望

小学生の頃は、真面目で特段普通でした。

北海道の歴史が50年以上ある学校だったので、暖房は暖炉でした。

床から天井まで繋がっている、業務用のクソでかい暖炉です。

触ると大火傷です。危ないと子どもでも見てわかるので、誰も触りませんが。

 

都会とかの学校に通ってる人からしたら考えられないと思います。

そして便所コオロギが大量に発生する学校です。

 

小学3年になって、人生で2回目の恋が始まります。

 

どうでも良いですが、初恋は幼稚園の先生です。

とにかく美人のお姉さんという感じでした。

 

名前も一生忘れないです。こういうのってインパクトがでかいんですよね。

 

小学3年の頃は、知らないうちにクラスの子(K)から好意を寄せてもらっていました。

 

子どもの頃は、勉強と運動さえできればモテるものです。

勉強はそこそこできたかもしれませんが、運動は人並みでした。

 

Kさんは、

週1とかで定期的に僕に、プレゼントや手紙をくれました。

可愛い文房具や、思いの寄せられたラブレターです。

 

小3年でませていると思うと思います。

僕もませていると思います。

その彼女がませていたのかもしれません。

僕は子どもでしたので。やはり小さい頃は女の子の方が成長は早いです。

 

あまりに子どもだったので、忘れている部分も多いですが、

親には恥ずかしくて言えなかったですね。隠し切りました。

 

デートは学校の校庭や、彼女の家に行ったりもして、

お母さんとも仲良くしてもらいました。

その当時は、「花ざかりの君たちへ 」が流行って、大塚愛の「PEACH」が家で流れていたのを覚えています。

この歌は今でも普通に好きです。

 

普通に彼女のKは可愛かったし、これがずっと続けばと思って、人生最高潮でした。

周りも子どもなので、恋愛とわかっていない子もいました。

他の女の子には付き合っていると言われていましたが。

 

そんな順風満帆に見える学校生活なのですが、ここから一転します。

 

僕はアパート(3階)に住んでいたわけなのですが、

下の階(1階)に住んでいる子と仲良くなりました。

 

これがマジでやばい男の子(KY)で、

・僕のDS(その当時流行ったNintendoのゲーム機)は壁にぶん投げられて、破壊されて、中古のDSを弁償してもらう

・僕の父の車(ファミリーカー)、の助手席(僕が乗る席)に鋭利なもので派手に落書きされるわ
 →とんでもない悪ガキだなと思います。成人であれば普通に器物破損で逮捕です。

でとてつもなくやばい子と付き合っていました。

ここ書いてて思うのですが、「住む環境」ってめちゃめちゃ大事です。体験したからわかります。

 

僕自身、家も近く、学校の帰りとかもその子の家にみんなで集まって、ゲームとかかくれんぼとかしていたのですが、

そのKYが感情の波が激しすぎる、短気なヤツだったのです。

 

そして、後からわかりましたが、

現役ヤンキーの子どもでした。

 

今考えたらやばいです。僕はその後の人生でもこういうやばい奴と絡まなければならなくなるのですが。。

その当時も「この一家、やばいわーー、怖」と思っていました。

 

そんなこんなで大変さあり、楽しさありって感じでした。

 

しかし、そこから問題が起きました。

引越しが決まったのです。隣町に。

理由は、おじいちゃんの家がそっちにあるからでした。

 

もちろん彼女とはお別れです。

そして嫌なKYともお別れです。

 

マジで引越しが嫌でした。

「せっかく楽しく遊べる友達もできたのにと。」

 

引っ越してからがマジで大変です。

まず、全校生徒の前で紹介されるという恥ずかしさに加えて、

 

子どもって転校生がすごく気になるものなので、

すごく話しかけられます。

仲間意識のある集団の中に、外から人が入ってくることを嫌うんですかね。

僕の同じクラスの転校生はだいたい冷たい対応をされていました。

 

転校してからは、

クラスの中で強い男子に、なぜか足が早いと勘違いされ、

クラスで1番足が早い子と体育館で勝負になりました。

 

「勝てるかも」とは思いましたが、これが全然勝てないんですよね。

圧倒的に足早すぎて。

 

そこから僕のレベルというか

カースト制度は下位に決められました。

「こいつ、弱い」と確かめられ、認定されました。

 

要はいじめの対象です。

奴隷として使われる運命です。

 

そこから、喧嘩強い奴に、

なんか気分が悪かったり、イライラしていたりすると、

ぶん殴られます。

 

ボクシングやっていたので、めちゃめちゃ痛いです。

歯向かってもボコボコにされるので、我慢しないと行けません。

「なんで俺だけ、こんなことにならなきゃ行けないんだよ!」

「マジでふざんけんなや、死ね」

「呪い⚪︎してやるわ、将来強くなってぶっ⚪︎すから覚えてろ」

とマジで思っていました。

 

田舎で不良が多い小学校だったので、

喧嘩も日常茶飯事で毎日のように、いろんなところであり、

よく僕にイタズラして喧嘩をふっかけてきた、KTがいたのですが、

ブチギレすぎてロッカーに突っ込んで、腹部を思いっきり蹴りすぎて人を殺しそうになりました。

 

KTの方がふざけて、パンチしたり、もの盗んだりするから悪いとなりましたが、

「流石に、やりすぎると人を殺してしまうな」

「切れると、自分は歯止めが効かなくなって怖いな」

「頭に血が上りすぎると、自分を制御できなくなるな」

と怖くなりました。

 

もう大人なので、そんなことはありませんが。

 

そんな荒れていた都会の小学校とか、治安の良い小学校とは比べ物にならない。

ヤンキーの子どもとか多い小学校でした。

それを乗り越えられた自分も、小学生でよく乗り越えたなとは思いますが。

 

 

中学生~平和だった学校生活がいじめによって一瞬で地獄と化した

僕の中学入学当時は、ただの真面目な中学生でした。

僕の中学校は、普通の学校よりも不良が多く、治安はとても悪かったです。

 

日本の中学校にいるのに、

「ここは戦争地域か!?」というくらい、

いじめや悪ふざけが度を越えているのです。

 

例えば、いじめならば学生をいじめるのは、

ほとんどの中学校にあると思うのですが、

学生のみならず、「先生までも、いたずらではなく本気でいじめる。」

 

しまいには、185cmのバスケ部の主将でヤンキーの子がいたのですが、

先生に馬乗りしてボッコボコにしてました。

先生は顔を殴られて切れてしまって、血を出してました。

 

さすがに可哀想すぎるでしょと思いました。

いやこれドラマの世界でしょと、思いましたね。

彼を好きな彼女たちは、「やめて!やめて!」と叫んで止めていましたが。

 

番長みたいな奴で、

他の男子は彼に勝てるやつはいないので、

止められるのは女子しかいませんでした。

 

ここからやはり、女性は強いなと思います。

大勢の女子に言われると、さすがに止められるので。

 

普通に、停学処分のレベルです。

 

 

他の悪ふざけでも例えば、

「授業中に授業ができなくなるくらいの大声で歌を歌いだす」

「靴を4階から外へ投げられて、自分で取りに行って帰ると学校のドアにカギをかけられて入れなくなる」

「男の先生を馬乗りにして殴りまくる」

「人のものをめちゃめちゃ盗む。」「お金も、流行っていた遊戯王カードもよく盗まれていました。」

「万引きなんて当たり前」

「殴られてメガネを3本ぶっ壊される」

ルールというものはない。

そんなことが、日常茶飯事のような激ヤバな中学校でした。

 

僕はそんな中学校で1年生は何とか、関わらないようにして何事もなく、安全に過ごすことができました。

先に行っておくと、僕はこの中学時代で人生が大きく変わる出来事にまた会います。

 

 

中学2年生になり、クラス替えがありました。

そこから、僕の人生は大きく揺るがされることになります。

 

1番たちの悪い不良、まさにやくざの子供みたいなのに絡まれたのです。

勝手にあっちから目を付けられのです。

私はそこから人生のどん底「地獄」を経験することになります。

 

そこから、地獄のいじめが始まりました。

僕を、主にいじめる不良は2人いました。

ここでその2人を、仮に名前をIとKと付けます。

 

Iは僕が関わらないようにしても、

ずっと付きまとってコテンパンにいじめてくるような人間でした。

 

Iからしたら、

自分の悪い家庭環境でのストレスを僕に向かって、

完全発散しているのかもれませんが、

僕からしたら冗談ではなくマジで「死ぬ覚悟」をしたほどです。

それほど、いじめは深刻なものでした。

 

例えば、休み時間になると一目散に、

僕を無理やり引っ張り廊下に出だして、

いかにも僕がサンドバックかのように、本気で殴ってきたり、蹴ったりしてきました。

マジでこれは「リンチ」です。

 

 

こんなことされたことある人いたら会いたいです。

理解できるので気が合いそうです笑

 

本当に人間の扱いをされないくらいひどく、

あざは何十か所にもでき、

骨を折られるのは時間の問題だと思っていました。

 

そのような扱いを、1週間や1ヶ月とかではなく、1年半は続きました。

1日に1回とかではなく、何度も殴られ、蹴られました。

僕の私物を盗まれることや、目の前で取られるなんて当たり前のことです。

 

まさに人生のどん底でした。

死にたいと何度も思わされました。

今でも本当に醜いです。

 

そこから僕は、学校に行って蹴られたり、殴られたりするのが恐怖になり、

学校に行くのが嫌になり、登校」になります。

 

不登校になって、学校に行かないようになってから、親にも心配されるけど、

中学生の僕は恥ずかしくて何も言えず、ただ具合が悪いから休むといい、ずっと暇な日々でした。

 

 

僕自身も家にいても特にすることはなく、ゲームをするか漫画を読むかばかりで、本当に退屈でした。

ですので、学校に行きますがまたいじめられます。

 

どんな先生に言っても、どうしてくれるわけでもなく、解決することはできませんでした。

本当に、あの時は地獄でした。

たまに学校に行ったり、休んだりと毎日がその繰り返しでした。

誰が何をしてもどうしようもならない、変わらない状況です。

成績は悪くなるわ、悪いことを強要されるわで、私はもうどうしたらいいのかわかりませんでした。

辛すぎて、頭がおかしくなりました。

 

「俺の人生はなんなんだよ」

「なんで俺だけターゲットにされてボコボコにされるんだよ」

マジで自分を呪いましたね。

 

しかし、そのときの私はその絶望の状況に決意しました。

自分がぼこぼこにいじめられるのは、大人の力でもどうしよもならないのなら、

もうしょうがない、これは耐えるしかないのだと。

耐える他に方法はないと分かったのです。

 

実際、私はその中学校2年生の絶望の時期を耐え抜きます。

死ぬまで忘れません。そいつらのことは。

 

そして中学1年の頃は、サッカー部に入っていたのですが、

元々サッカーが好きでやっていましたが、

そこでもたくさんケガや、病気、先生からの体罰を受けてきました。

 

・中1の時に、同じチーム内で練習試合をやっていたら、その当時中3のエースの部長と衝突して頭から血を出す危険な事故

・中2の時に、他学校との試合の後にマックにいただけで、サングラスの怖いムキムキ顧問から、全員一列にケツを向けて並ばされて順番に倒れ込むほどのタイキックされる始末

中2の時に、僕を鍛えてくれる期間で練習が大変すぎて、体に帯状疱疹が出て体験したこともない耐えられない痛みで、危ない状況になった

 

帯状疱疹が特にやばくて、重症化すると普通に入院レベルなんですよね。

そして合併症を起こしやすく、失明すらの可能性もあるマジで恐ろしい病気です。

 

水疱瘡などの皮膚の病気なのですが、身体の半身にピリピリと刺すような痛みとなり、夜も眠れないほど激しい痛みなんですよね。

でも最初は皮膚の病気だとわからなくて、原因がわかるまでは内科など転々と病院を回っていました。

帯状疱疹の後は、僕は結構重症な方だったので、今でも微かに跡は残っています。

なっている人はわかりますが、かなり恐ろしいウィルスです。

 

帯状疱疹は、過度なストレスが長期に及ぶことで発症しやすく、サッカー部の過度なストレスでなりました。

僕も高校時代時は陸上部に入っていましたが、その時もかなりスパルタでしたが、帯状疱疹までは出ませんでした。

中学時代は、他の中学とは比べ物にならんくらいきつかったです。

 

それで僕は親から、こんな身体になるのであれば、サッカーはやめなさいと怒られてやめることになります。

中学2年生の出来事です。

 

部活を辞めてからやはり暇になるので、ヤンキーのガキたちに絡まれていたというわけです。

 

 

高校生~好きな人ができたが、コミュ障で勇気がでない自分に苛立ちを感じる日々

僕が高校生になった頃、入学してすぐに好きな人ができました。

もうそれは、完全な一目惚れです。

目が大きくてクリクリしてて、髪もロングでカールして可愛かったです。

 

 

好きな子と一緒のクラスで、話す機会がありました。

僕はその頃、自分から行けない完全な陰キャラだったので、

自分から言ったわけではなく、席が近かったことがあり、

強制的に話す機会があったのです。

 

そこで相手から話しかけてきました。

その時の僕の内心といったら、心臓がバクバク過ぎて、

心臓が飛び出るくらいの緊張具合でした。

 

人間本当に好きな人と話すときは、心臓がとんでもないほどバクバクするはずです。

僕は、高校1年生で本当に好きな人が初めてできたので、それはもう心臓は半端ではありませんでした。

 

僕は、中学生の頃はかなり遊んでいたこともありますが、

高校入学当初から、良い大学に入る目標があったので、

勉強も平均以上はして、あまり遊ばず、

どうしても陰キャラの状態になりがちでした。

 

僕は今でもそのことは、本当に後悔しています。

まあ、後悔しても過去のことはどうしようもないんですけどね。

でも、人間陽キャラいた方が楽しいと思います。

 

それは、まず友達や話せる人が圧倒的に増えるし、

思いもよらないチャンスが来たりするからです。

 

結局、僕は1年生の頃は告白することもなく、2年生になってしましました。

僕は、陸上部だったのでほぼ毎日部活に励んでいました。

その頃も、彼女への気持ちは全く変わらず、

でも僕は、告白したことがないので、告白することが怖かったことと、

告白して振られたら格好悪いとばかり思っていました。

 

まあ、今考えると本当にバカだったなと思いますよね。

振られて格好悪いと思われるのと、

付き合えるのどちらが良いかといったら、

絶対に付き合えるほうが良いに決まっています。

考えれば、考えるほど時間がもったいないです。

 

大事なことなので言いますが、これはビジネスも含めて人生の全てに通じます。

迷っているのなら、明らかにGoした方が良いです。

機会損失が半端ないです。一生の後悔になります。

 

2年生もあっという間に過ぎ、3年生になります。

僕の好きな彼女とは、席替えの度に席がすぐ後ろだったり横だったりと、運命かのように毎回のようにすぐ近くにいました。

僕は、ある程度成績が良かったので、彼女から勉強を聞かれることも何度もありましたし、LINEで話すこともたびたびありました。

この状況で、なぜ俺は告白しなかったのか、、、

本当にその時の僕は謎です。

周りからみれば、早く告白すれよと思うはずです。

 

でも、そこでもなぜか自分の好きな人はごまかし、友達の好きな人は聞いていました。

もう、意味が分からないですね。

あの頃の僕は、本当に葛藤の日々でした。

なんで、本当に好きな人がいて彼氏がいるわけでもないのに、告白しないでいたのか。

もしかしたら、相手も僕のことが気になっていたから、LINEをしてきたのかもしれない。

こう見たら、本当に過去の自分は鈍感ですよね。

 

「マジで悔しい。これも一生の後悔です。」

「当時は、結婚したいくらいにめちゃめちゃ可愛かった。」

「これが本当の人生の損なんですよね。」

 

お人形さんと女子や男子たちから言われるほどに、目が大きくて顔が整っていて、

スタイルもすらっとしていて可愛かったです。

 

悔しいし、恥ずかしすぎる僕の過去です。

振られてもいいから本当に告白しておけば良かった。

後の祭りです。

 

 

高校生の時は、親友が小学生からずっとサッカーをやっていたけど、

陸上に入ってみたいとのことで、一緒に陸上部に入りました。

 

僕は運動神経がなかったので、大変だったんですよね。

中学時代に、部活始めのアップの時に、3キロ走るのですがそれは得意だったのですが、

・陸上部に入って長距離専門になって走ってはみるものの、体力が持たないのと、足の痛みでタイムが悪すぎて結果を出せない。

・そして1年結果がでず、2年生の時に顧問に短距離にシフトしたいとお願いして短距離専門(100m, 200m)をやるも、こちらでも元々足すごく早い方ではないので結果を出せない。

とこんな感じでずっときました。

「もうこれは一生結果は出せないんじゃないか」

「俺は走る才能なくて陸上には向いてないな」

「どうすれば結果が出るのだろうか。いくら練習してもスポーツは身体の差も大きくて抜かせないな。」

 

と、めちゃめちゃうまくいかずに葛藤していたことを覚えています。

そこで、たまたま2年の秋に先輩が、走り高跳びをやっているのをみて、

なぜか自分もやってみたい、なんとなく飛べるんじゃないかと思っていました。

 

そして、1回やってみると、いきなり150cmくらいを超えられました。

他の陸上部の友達は飛べませんでした。

「これは俺が戦えるんじゃないか。」と希望が見えたんですよね。

 

そこからすぐに1ヶ月後とかの北海道内の地区の大会で、155cmとか飛べて全道大会に進出できるようになりました。

「マジで、人生何があるかわからない」と思いましたね。

1ヶ月前までは自分にめちゃめちゃ絶望していましたから。

 

そこから、最後高校3年生の全道大会で170cmくらいを飛べるようになるまでは行けました。

部内の友達からも一目置かれるようになり、結果的に楽しかったです。

ここからも諦めないことが大事だと思いました。

チャンスはマジで突然、考えていなかったところで起こります。

 

中学以来2度目の地獄へ、精神的にマジで病みそうになったアルバイト時代~二度とバイトへ行きたくなくなる

 
ここから、バイト時代の物語になります。
 
バイトの始まりは、大学1年生の春休みです。
 
 
大学生って、一年の半分くらいは休みなんですよね。僕にとっては、最高のことなんですが。
 
 
その春休みは約2ヶ月ほどあり、
 
暇で何をして過ごそうかと考えていたときに 思いついたのが、
 
アルバイトです。
 
 
僕は、 高校生の時も部活と受験勉強で手一杯で、
 
アルバイトというものをしたことがありませんでした。
 
 
なので、「本を買いすぎたのと、もっと本を買いたい」といった単純な理由で、
 
アルバイトを始めました。
 
バイトは、 僕が住んでいる地域で比較的時給の良かった、ホテルで働くことになりました。
 
 
そのホテルでの仕事は、布団の準備と食器の配膳です。
 
働き初めの一ヶ月目は、 社会に出て働いた経験もなかった自分には、何もかもがすべて新鮮で楽しいと感じていました。
 
 
しかし、2ヶ月目になると、新鮮さも何も無くなり、刺激を感じることも無くなり、どんどんバイトがつまらないものになっていきました。
 
 
 バイトがつまらなくなり、
 
お金を稼ぐことと、仲良くなった仕事仲間と会って話すことだけが、
 
バイトをする目的になっていきます。
 
 
そして、時間を経て好きになった女子高生の女の子と話して、恋愛に発展しないかのチャンスを狙っていた時がドキドキして刺激がありました。
 
2人ペアの時はめちゃめちゃ楽しかったです。
 
大学が理系でほとんど女性がいなかったので。
 
 
バイトする目的に戻りますが、
 
元々のバイトを始めた理由が、本のお金を稼ぐことなんだから、良いんじゃないの?
 
と思うと思います。
 
 
でも、バイトを経験することで分かったことですが、
 
『人間は楽しさや刺激がないと、お金を稼ぐのは辛い』
 
と思ってしまうのです。
 
 
例えば、旅行にいくとして過去に行ったことのある場所と行ったことがない未知の場所だと、あなたはどちらを選びますか?
 
 
これは、人にもよるかも知れませんが、おそらく大体の人は、未知の場所に行きたいはずです。
それは何故かというと、行ったら未知の楽しいことやたくさんの刺激を受けることができるからです。
 
 
だから、僕は2ヶ月目にしてバイトの楽しさを感じなくなり、辛くなってきたのです。完全にお金を稼ぐ意味を見失いました。
 
 
なんでここまで辛い思いをして、働いて稼がないといけないんだ? なんでこんなに辛い思いをして働かないと行けないんだ?
 
 
僕は、このようなことを心に感じながらも、本の買いすぎや贅沢をして、お金は減っていく一方で稼ぐしか道はありませんでした。
 
 
 毎回バイトに行くと、口うるさい上司や好き勝手に指図してこきをつかう上司がいます。
さらに、バイトの時給はみんな同じなのに、 年上の高齢者を優遇して、僕たち若者に体力仕事を押し付けてきます。
 
 
 僕はこの労働環境に 耐えきれませんでした。
 
 
ここから僕はコンテンツビジネスに出会って、10万円稼ぐことになります。
 
 
しかし、そこまでの道は大変でした。
 
色々な副業に手をつけては、1円も稼げないといったことが多かったからです。
 
・物販
 →ハイブランド財布の転売、メルカリ転売、中国輸入転売
・アフィリエイト
 →オプトインアフィリエイト、自己アフィリエイト、ブログアフィリエイト、SNSアフィリエイト
・外注を雇って、ブログメディア作成
・FX
・バイナリーオプション
・コンテンツ販売
 →DRMマーケティング
・プログラミング教育事業
 
 
だいぶ稼ぐまでは遠回りをしてきた人間です。
 
「なんで俺だけうまくいかないんだよ!」
 
「後から入ってきた人たちにどんどん抜かされるし」
 
「俺は稼ぐセンスないのかな。もう諦めちゃおうかな」
 
「でもどうしても、自由になりたいし稼ぎたい!」
 
と思っていました。
 
 
今までで、
ビジネスには、絶対に1500万円以上は投資してきてます。
 
コンサルだけで、1000万円だったので。
 
 
でも結局は何事も継続して、しっかりやらないと稼げません。
そんなに甘い気持ちで初めても、お金は得られません。
 
 
僕がコンテンツ販売をお勧めするのは、
 
・初期費用が少ない
・ランニングコスト(固定費)などが少ない
・1人で完結できる。従業員がいらない。
・利益が9割以上。(他のビジネスであればあり得ない)
・もし辞めるとしてもお金かけずに一時休止とかできる。
・リスクが他のビジネスよりも圧倒的に低い。
・学んで、実践すれば、売上が着実に上がっていく。
 
からです。
 
デメリットがないほど、メリットだらけです。
 
今の時代、顔を出したくない人であれば、キャラクターを作れば良いので。
 

人生最大の決意と人生最大の悔しさ~大きな野望を秘めた海外留学の決断

 

僕が、自分でお金を稼ごうと思ったのは、大学2年生の頃でした。

大学1年の春休み頃から、ホテルのアルバイトを始め、

大学の長期休みだけ、アルバイトする生活を送っていました。

 

大学2年の時も、ただ単に大学に行って、休みはバイトをしてという、

大学生の一般的な変わりのない生活を送っていました。

バイトも超肉体労働で、毎日筋肉痛になるほどでした。

その時は、気づかなかったのですが、今思うとつまらない人生を送っていたと思います。

大学2年の冬休みの時、将来に不安を感じ、自分のやりたいことも全く決まっていませんでした。

このまま就職をしたとしても、つまらないサラリーマン人生が待っていると思っていたし、こんなにすぐに就職はしたくないと思っていました。

そんな時に、留学が思いついたわけです。

留学をすれば、就職を1年延ばせると。

僕は、昔から旅行や新しいことが大好きで、好奇心旺盛でした。
また、将来は世界一周をしたいと思っていたほどです。

 

だから、将来に不安しか感じなかった僕は、海外留学をすると決意しました。

僕は、北海道に住んでいますが、東京に海外留学の会社に話に行くことにしました。

その会社で話を聞きに行ったわけですが、最初はいいことばかりを言われて、

最後に値段を聞くと、オーストラリア留学でさえ、1年で300万円と言われたのです。

「そんな金額、大学生に払えると思うか!」と思ったのです。

それは、僕の家庭は貧乏ではありませんでしたが、留学にお金を出せるほど、

裕福でもなかったからです。

 

「やりたいことをやるためには、世の中金が全てだな

お金さえあれば、全てが自由なのに。」

「なぜ行きたい人は行けるのに、俺は行けないんだよ。

と色々恨みました。

僕はかなり悔しがり屋で、反発心が強いので。

「ぜってえ、金稼いでやるから覚えてろ。」

「お前らより絶対稼いでやるから、見とけよ。」

と心が煮えたぎっていました。

 

昔から、自分は他の人とは違うと思ってきました。

だから、25歳とかで月100万円行ったんだと思います。

願いを実現するためには、必ず強い思いが大事です。

 

僕は、この出来事をきっかけに、完全に留学を諦めかけることになるわけですが、

その時点では、諦めたものの完全には諦めきれませんでした。

僕は、それから何とか安く留学に行く方法を探すことになりましたが、

安く留学する方法はあったものの、条件が合いませんでした。

僕は、一旦留学のことは忘れて、自分の将来についての全体像を考えました。

要するに、僕が留学に行きたい本質を考えたのです。

そこで、ある思考にたどり着くことになります。

「そっか、自分の力だけでお金を稼げるようになったら、就職をしなくても生活ができるか」と当たり前のことを思ったのです。

でも、この大事な本質に気づかない人は多すぎます。

当たり前すぎる考えだからこそ、近すぎて気づかないまま生きてしますのです。

僕は、そこからネットビジネスをやるようになったわけです。

 

就職したくなく教授・先生方とバトルした大学3年生

僕は元々就職はしたくありませんでした。

理由は単純で、労働をしたくなかったのと、サラリーマンの給料は低いからです。

 

大学2年生くらいにWさんという方に出会い、インターネットのビジネスを学び始めました。

WさんのブログやYoutubeなど発信を見て、教材を購入して実行しました。

Wさんだけで合計30万円は使っていたかと思います。

 

そのほかにも、違う発信者からも学んでいたので、大学の時だけで合計100万円は言ってたかと思います。

詐欺師や胡散臭い人もたくさん見てきました。

 

しかし、いく日もいく日も結果は出ませんでした。

その状態で、周りが就活をする時期になってしまい、自分は就活希望シートに独立と記載して提出しました。

 

その何日か後から、研究室のメンバーと教授との個人面談(1on1)が始まりました。

自分は、「インターネットビジネスをしていて、これから売上を上げて起業するんです!」と何をしているかと未来の目標を話しました。

そうすると教授は、「何をしているのか意味がわからないし、まだ売上も上がっていないのだから、〇〇くんは就職した方が良いよ」と、言いました。

でも、自分は嫌だったので、それを拒みました。

 

その後、何度か個人面談(1on1)をしたのですが両者折れることはなく、最後は教授が「事業計画書を作って持ってきて」と言いました。

自分はそんなの作ったことないし、何を書けば良いかわからないとなりました。

最終的には自分が折れて、適当に就活するすることになりました。

 

就職するなら、ビジネスの仕組みを上から下まで見えるところが良いと思い、従業員数60名ほどの中小企業に内定をいただきました。

 

サラリーマン時代~月17万円の手取りに絶望。地獄の社畜生活

最初は、本社の名古屋に行きました。

初めての1人暮らしだったので、かなり不安でしたね。

しかもすぐに帰れない距離だったので、1週間くらいはホームシックになりました。

同僚がいたので、頑張れましたが。

僕はかなり寂しがりやって、自分でわかっているので。

やはり、孤独は悲しいなと思います。

 

そこから1ヶ月間の研修を経て、最初は横浜勤務でした。

新横浜です。この光景は僕の人生で2度と忘れないほど濃い思い出です。

ここからサラリーマン、社会人人生の全てが始まりました。(見てても懐かしい。色々呼び起こされる感覚です。)

 

1人暮らしの家は、社宅(会社が決めた予算内の部屋に住むルール)だったのですが、

最初は、一応新築だし、1Rだけどロフトもあって、
曇りガラスには驚いたけど、光も入るかなと思っていました。

僕は北海道のど田舎に22歳まで住んでいたので、
東京は曇りガラスが多いなんて知らなかったです。
あと、冬はエアコンで過ごすとか。北海道は石油ストーブか家に備え付きのオイルヒーターだったので。

その辺は超情弱でした。

都会のことは全くと言っていいほど知りません。
家と家の感覚こんなに狭いんだとか。

最初は、カルチャーショックが大きすぎて、実家に戻りたいな、将来は北海道に住もうかなとか思っていました。

横浜の1Rに住んでからというものの
壁が薄すぎて隣や上の生活音がまる聞こえで、
普通にテレビの音、音楽の音聞こえるしとか。

半年経った頃には、隣の空き地に家を建てることが決まって。
すぐ隣なので、日中はものすごく工事音がうるさいし、
できたらできたで、13時から部屋がその家の影になって真っ暗になるしで最悪でした。

この暗さです。やばくないですか?
しかもこの広さしかないです。まさにどん底時代です。

13時ずっと暗いと、気分もそれは暗くなります。
人間太陽ないとダメなんだと思いました。

ちなみに、その時に外に出て撮った写真がこれです。

やばいですよね。

都会のオフィスとかであれば、普通にこれはあるかもしれませんが、

これはプライベートな家です。さすがにこれはきついです。

精神衛生上良くないです。

 

そこから、また数ヶ月後にはアシダカグモという巨大なクモが3回ほど出てきて、
僕は虫が触れないほど大嫌いだったので、
男ながらに悲鳴をあげました。

恥ずかしいですが、、、調べてみてください。
アシダカグモの写真検索してみてください。
普通に寝る場所にこれがいたら超気持ち悪いですから。

 

サラリーマンになってからの初任給は、21万円でした。

ちなみに専門学校を出た人は、20万円で、

「大学と専門学校の差は、たった1万円だけの価値なのか!」

「これはあり得ないだろ」

とムカついたのを覚えています。

 

僕は、落ちこぼれだったので、私立の大学を通っていましたが、

総額で大学だけで600万円以上を父親に出してもらっています。

自分では一切払っていません。そんな情けない人間でした。

 

自分が情けなさすぎました。

これは一生貧乏な人生だぞと。

もちろん、父には返せないくらいの恩はお金など含め、たくさん与えていただいているので、

僕の生涯を通して恩返ししていきます。

 

それも含め、

だから僕は、何度も挫けそうになっても、父の方がおそらく、

いや絶対に大変だったから、それを返したいのです。

 

父は旅行が大好きなので、母と妹と、昔みたいに家族旅行で、

好きな国に連れて行くのが夢です。

歩けるうちに。

 

21万円のうち、税金を払って、

手元に残る手取りがおよそ17万円です。

 

ここから、サブスクとか社宅の家賃とか、光熱費とか、余暇とかに使うと、

貯金なんてできません。

 

僕の本音をここで話しておこうと思いますが、

世の中は、全て「お金」によってコントロールされています。

 

資本主義なので、お金がないと残念ながら餓死します。

人生つまらなくなります。

選択肢が極端に狭まります。

そのお金の範囲でしか、やりたいことをできなくなります。

選択の自由などありません。

 

「お金が全てではない。」

「愛の方が大事だ。」

「お金が1番とか汚い」

とか、特に日本人であればいうかもしれません。

 

しかし、それはお金で困っていない人が言えることです。

お金が足りない人はそれどころではありません。

1ヶ月後、1週間後、1日後を生きるのに必死な人は、アフリカとか数多くいます。

 

例えば、インドとかアフリカの人は、

愛する家族のために、お金を稼ぐために本気で努力して、

世界で活躍しています。

 

陸上や、サッカーのスポーツのみならず、

IT分野で天才ハッカー、プログラマーとか

 

なぜ、この領域に彼らがいけたのかいけたのかというと、

誰よりも本気度合いが違うからです。

特に日本人とは圧倒的に違います。

日本人であれば、余裕で喰われるレベルです。

 

だから本気になって諦めなければ、誰でも行けるのです。

これを読んでいるあなたも決して諦めないでください。

 

今が真っ暗の希望の光がない状態でも、

諦めず頑張っていれば

必ず未来は少しづつ明るくなっていきます。

 

だから、僕は選択肢を広げたい。

海外旅行とかいきまくりたい。

自分に合わない人とは関わりたくない。

自由になりたい。

そんな強い思いが根底にあり、ここまで来れました。

これからもっと誰も届かないくらいに遠くに行きますが。

 

 

さて、脱線したので話を戻しますが、

 

最初は社内でもらってきた開発案件をこなしていました。

これは、社内のメンバーが一緒になってやるので特段、

そこまで苦ではありませんでしたが楽しくはなかったです。

 

やりがいなどというものはありませんでした。

やりがいなど、全て綺麗事だと思っています。

現にやりがいで搾取している組織は、山のようにあります。

やりがいがあるから、多少給与が少なくても良いでしょという、アホみたいな搾取思考の会社です。

 

 

やっと1人暮らしかつ、都会に来たこともあり、

遊ぶとこもたくさんあるので、完全に都会デビューの気分でした。

やばいです。初めて都会に1人暮らしの気分は、ど田舎に20年間とかいた人にしか分かり合えないでしょう。

 

僕は、大学は理工系なので女子が9:1とかで全然いなくて、陰キャだったので

住んでたところも緑だらけの田舎だったしで、彼女なんてできるわけないし、

高校生時代も、陰キャで好きな子にアプローチできないくらいですから、彼女はいませんでした。

 

マジで小学生以来モテというものはありませんでした。

彼女がめちゃくちゃ欲しかったです。女性と関わりを持ちたかったのです。

 

ここから、彼女を作るためにも、隠キャからかなり頑張りました。

まず、

・黒縁メガネをやめてコンタクトにする

・服も安いGUでおしゃれに見えるものを買う
 →高校生や大学生から着ている服は着ない。

・1000円の床屋から4000円の美容室に変えて、かっこいい髪型に定期的にする

・良いニオイや美容に気を使っていなかったから、Youtubeで調べまくって、匂いの良いボディーソープやシャンプーを買う。

・ニキビがやばすぎたので、良い洗顔料を買う。

・街コンなどに積極的に行って、女性と話すのに慣れる。

・恋愛系のYoutubeを見て、女性はどんなこと考えていて、どんな男性が好きなのかを勉強する。

・課金してマッチングアプリを頑張ってみる。

・お金を少し稼いでからは、マッチングのために、
女性スタイリストさんに来てもらって洋服を一緒に選んだり、高級美容室に連れて行ってもらい女性受けする髪型にしてもらう。

そんなこんな色々、時間とお金を投資して、

 

ここから↓

 

こうなりました(1年後くらいです)↓

 

なんか恋愛系のビフォーオフターみたいで嫌ですが笑笑

 

結果的に、

1人暮らしの開始が4月で、11月には箱入り娘の可愛い東京出身の同い年の女性とお付き合いすることができました。

さすがに舞い上がりましたね。

「よっしゃー!ついに彼女できた!」

「俺にもこんなに可愛い彼女ができるもんなのか!」

「絶対に大切に幸せにしよう」

って。

 

その当時はめちゃくちゃ幸せでしたね。

東京に来たばかりで、同期の友達とかはあまり近くにいなかったので。

 

横浜デートして、水上バス乗ったり、

八景島シーパラダイス行ったり、

今はなきビーナスフォート行ったり、そこの大観覧車乗ったり、

占い行って見てもらったり、

付き合って1ヶ月記念日にペアリングを買って、プレゼントしたり

 

お互いに楽しんで絶頂期でした。

今が楽しければ、仕事は我慢すれば良いかみたいな甘いことも少し頭に浮かんだことはありますが、

絶対に労働は辞めたい、お金持ちになって海外旅行に好きな時に行ける自由を手にすると思っていたので、

仕事は何が合っているのかわからないながらも、成功に向けて戦っていました。

 

結果的に6ヶ月ほどで、僕の日々の発言や気遣いがなく、

泣かれて別れることになってしまったんですが。

「なんでこんなにも好きなのに別れてしまうことになるんだよ。」

「何がそんなに悪かったんだろうか。」

 

その当時の僕の気遣いが足りなかったことが原因で、元カノには申し訳ないと思っています。

また、そこから学ばされましたね。

 

やっぱり何事もやってみないとわからないのかと。

 

仕事の方では8ヶ月ほど経って、12月くらいに客先常駐というものに行かされることになりました。

これは、簡単に説明すると、

会社が社員を特定の企業で働いてもらう代わりに、

会社はクライアントの企業からその分のお金をもらう形態です。

 

ということは、自社の社員は自分で働いているところにはほとんどいないわけです。

一緒に特定の企業に派遣されていない限りは。

 

本当に自分の席の周りは、クライアントの企業の社員しかいなく、いつも緊張し怒鳴られすごく居心地が悪かったです。

嫌な思い出すぎて、記憶が消えているところもありますが、2ヶ月ほどしかいなかったかと思います。

 

そこから、「こんな労働はもう嫌だ!!」と思い転職を考えることになります。

 

独立時代~人間関係で精神おかしくなる

転職を考えている中で、Aさんという方に出会い、あるサービスに参加していろいろ教えていただきました。

 

その方は本当に優しく、男としてすごく魅力的ですし、人間的な面でも好きで尊敬しています。

その方にフリーランスのなり方を教えていただき、いろいろとコネクションを繋いでいただき、フリーランスのエンジニアになれました。

 

これが今後自分の人生を好転させていくことになります。

元々エンジニアとしては、大学生時代から朧げにフリーランスになりたいと思って東京に上京したので一つの夢が叶いました。

 

フリーランスとして1ヶ月目の稼働が始まりました。

銀行系にいたこともあり、周りの方はみんな高学歴すぎて頭が良いし、基準値が高すぎて全然ついて行けませんでした。

案の定すぐに契約は解除になりました。

自己嫌悪になりましたし、エンジニアとして挫折しそうになりました。

 

その後も、フリーランスとして契約は決まりましたが、周りのエンジニアとしてのレベルが高くついて行けなく、できないと人間関係は悪くなりコミュニケーションは取りづらくなるという悪循環でした。

普通に怒鳴られますし、使えないと言われます。

「自分にエンジニアは向いていないのか、やめたいな。。」

と何度も思いましたし、精神科に行こうと考え病んでいました。

 

そこで、このままフリーランスとして働いても、自分を消耗しストレスかかりすぎて早死にするだけだろうな。

一生稼働しないとダメじゃないかと思いました。

 

月100万円を達成するまで〜新しい世界

それからなんとか2年くらいまでは、粘り強さでフリーランスを継続することはできました。

 

しかし、ほとんど状況は変わっていませんでした。

自分自身、ずっと停滞している気分だったし、売り上げは全然上がらずジリ貧の状態でした。

 

これは売り上げを上げるために何か変えなければいけないと思い、

インターネット上で、仕組み化で月500万円以上を稼いでいるYさんという方を知り、今の自分には見えていない視点があったことと、

このまま何もしなければそのうち売り上げ0になると思っていたので、教材を買うことにしました。

 

たまたま懇親会があり、Yさんと会う機会があり会いに行きました。

当初は、六本木なんてほとんど行ったことないし、めっちゃ大人な街だと思い身構えるところはありました。

 

お店に入るまでは、怖くてだいぶ膝ガクガクで緊張していましたし、「怖い人だったらどうしよう・・」、「場違いだったらどうしよう、、」と、今でも覚えているくらい怖かったですww

そんな状況でも、その時の自分にはもうgoするしかなかったし、わらにもすがる思いでした。

 

指定されたお店に入ると、奥の部屋に通されそこにYさんがいました。

顔は見たことがなかったため、あった瞬間にすごい衝撃が走ったのを今でも覚えています。

服もバックもルイ・ヴィトンだし、サングラスしていて、なんか世界が違う人かもしれないと第一印象は思いました。

 

自己紹介やいろいろ話を聞く中で、

ずっとフリーランスでやることは年取った時に現実的に無理だったり、

「自分がずっと稼働しなければならず、資産にならないから仕組みかしたほうがよいよ」と話していました。

 

また、これから結婚して子どもも考える場合は、数百万程度で大事な人を幸せにするのは難しいことだったり、病気になった時に医療費などで守ことは難しいと話していました。

 

確かにとその通りのことしかありませんでした。

しかも、会話もスラスラ出てきてずっと話されていたので、その時は「なんだこの方は!かなりすごい人だ・・」と思いました。

自分もその人のようになりたかったし、尊敬しかありませんでした。

 

その後、Yさんは「正しいやり方でやっていないだけで、それを知らないから何年、何十年たってもできないんだよ」みたいな話をされていました。

これは、大学生時代に学んだWさんも話していて、一貫していたので間違いないとは思いました。

 

そこからビジネスを仕組み化するにあたって、大事なことや考え方、クリティカルなことの表面を教えていただきました。

そこからYさんから学ぶことを決め、かなり投資しました。

でも絶対回収するのマインドでやりました。

 

インプットしたことをアウトプットするのは正直怖くて、止まってしまうことは何度もありましたが、

やらないと何も現状は変わらないし悪くなると思い、「もうどうなっても良いや」と勢いでやりました。

 

最初は、全然お客さんが集まりませんでした。もちろん商品が売れるはずもありません。

「全然売れないじゃん。これいつになった売れるかわからないな。。」

「これ続けて本当に意味あるのかな。会社員だと毎月固定で入ってくるのにな。」

など色々思っていました。

 

しかし、継続しているうちに自分に興味を持っていただける方が増えてきました。

お客さんと話す機会も増えてきました。

 

その結果、最初の5万円を成約することができました。

「やった!!、売れた!」「これが商品を売るということか!」

お客さんからの評価もよく、「こんなに真摯になって教えてもらえるとは思わなかった」や目標に向けて1歩を踏み出した方もいました。

 

「ここまで感謝されると思わなかった。」
というか、お客さんの生の感謝の声を聞けるのがすごく嬉しいと思うようになりました。

 

そこからはお客さんも増えていき、
結果として月100万以上を達成することができました。

銀行の振り込み記録↓

 

その時の衝撃、興奮は忘れることはないと思います。

「これが100万円なのか?嬉しいけど、全然現実味がない。。」

達成した時は意味がわかりませんでした。現実を受け止めきれていませんでした。

 

自分には永遠に来なかったかもしれない世界が来たので。

その時は「仕組み化を辞めていなくて本当に良かったー」と思いました。

 

その時に、「自分の中だけでは一生見えない世界があるし、信頼する人から学ぶしかなかったのか」と思いました。

 

僕は、一生涯新しい世界に向かって突き進みます。

億稼ぐのも時間の問題です。

 

ネットだけで仕組みにより自動で1億稼ぐ多彩な起業家に

1000万円をコンサルに投資して、猛スピードで成り上がっています。

これはお金を稼いでいないと、絶対にできないことです。

普通の人はポンと1000万円を出せません。

出せれる人でも、怖がって出しません。

もちろん借金はしてません。

 

僕はまだまだ自分を過信することなく、一生上に進み続けます。

一緒に進んでいきましょう。

 

僕がお金を稼ぐ意味・揺るがない理念

最後に、

自分がなぜここまで困難があっても諦めず、目標に向かって頑張ってこられたのかの根底をお話ししようと思います。

 

まず1点目は、より楽しい人生を送りたいからです。

 

僕は今まで色々なことを我慢してきました。

お金がないせいで大学も道外に出れず、行きたい海外留学や海外旅行もいけず、やりたいこともできず。

資本主義のお金の制約に苦しんできました。

資本主義で人生をより楽しくするためには、最低限お金は必須です。

 

2点目は、今の延長線上では見ることのできなかった世界を見れるようになりたいからです。

 

 

僕がもし、独立をしていなく、ずっとサラリーマンだったらどうでしたでしょうか?

同じ給料で、そのお金と時間の制限の中で、日々変わり映えのない習慣を送っていたと思います。

僕は、変化のないことがすごく嫌だったので、日々上を目指しています。

 

それは人間ですから、たまには「きついな」と思うことはあります。

ですが、人生という期間で考えて、この経験は間違えなくプラスに生きてくると思います。

 

日々精進している人は、そうでない人に比べて魅力的に見えると思いますが、

僕自身も自分を驕らず日々精進して上を目指していきます。

 

終わり。

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追伸

僕の過去について動画でも語ったものがこちら